麻原裁判 控訴審弁護人
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平成18年3月30日

東京高等裁判所刑事部 御中


 本件控訴棄却決定(以下,本決定という。)は,すべてを指摘するには到底3日で足りないほど多数の,重大かつ明白な誤りを含んでいる。もっとも,その論理は結局のところ完全に破綻しているので,一読してその不当性は明らかである。以下では,本決定が第2のV以下で被告人の訴訟能力について「検討」する部分から,その誤りの代表的な例を,おおむね本決定の記載順にそって指摘し,もって本決定の病的なまでの虚偽性を明らかにする。

第1 井上反対尋問を出発点とすることの誤り
 1 本決定は,被告人が,原審における井上証人に対する反対尋問の当日,東京拘置所居房内において「俺の弟子は……」などと泣き叫んだとされるエピソードを引いて,「被告人の反対を押し切って井上証人に対する反対尋問を開始した原審弁護人に対して被告人が抱いた怒りの感情がいかに大きかったかを示すものである」(p142)としている。この認定が,本決定の論理の出発点であって,終着点でもある。
 しかし,そもそもかかる拘置所の報告内容が事実であるか否かが全く不明であり,その信用性を担保しうる情況が何ら示されていない。このような事実認定は,文字通りの砂上の楼閣というべきである。
 また,被告人は,「翌早朝まで弟子の名前を口にするなどして独り言をしゃべり続けた」はずであるのに,拘置所職員が聞き取って記録したのは,わずかに数語のみである。一晩中続いた独語の中から,意味のありそうな数語だけを取り出して,あたかも当日の公判の状況と符合するかのように言ってみても何の説得力もない。(拘置所等作成にかかる記録は,すべてこのようなものである。)
 被告人がこの時点で既に何らかの精神病や拘禁反応に罹患し,その進行過程にあったとすれば,その発言内容は全体に支離滅裂で裁判と無関係であったと考えるのが自然であり,仮に,その中でたった数語,裁判と意味のありそうな言葉(もっとも,反対尋問の当日であるという点をおけば,発言内容自体は裁判との関連性が明らかとは言えない内容である。)が聞き取れたとしても,それによって被告人の精神状態を正常と考えるのは,極めて不自然な認定と言わざるを得ない。
 況や,聞き取れたとされる被告人の発言は,もっぱら「弟子」(それも,名前が出ているのは,当日反対尋問の対象となった「井上」ではなく,「新實」である)に対する発言であり,原審弁護人に対する怒りの感情を示す発言はひとつも記録されていないのである。
 このような事実をもって,弁護人に対する怒りの感情の大きさを認定する理屈がどこから出てくるのか,全く理解不能である。なんとしてもそのように言わなければ,本決定の理屈が形式上も破綻してしまうというだけのことであろう。
 2 さらに,本決定は,井上反対尋問の最中,被告人が井上にだけ聞こえるようにつぶやいたとされる独語を挙げて,被告人が「同証人の証言内容に苛立つとともに,主尋問の内容を一向に弾劾できない原審弁護人に対する怒り,不信,更には失望の感情を一挙に抱いたことが看て取れる」(p143)などとする。
 しかし,まず,ほかの誰にも聞き取れず証人席の井上にだけ聞き取れた被告人の独語などというものが存在したと考えること自体が奇妙である。井上は,被告人に対する最大の敵対証人であることは裁判所自らが認めるところであり,このような者のみが認識したとされる被告人に不利益な事実を,当然に真実と扱う前提が誤っている。
 また,被告人が本当に井上に対して怒りを抱いていたか否かはおくとしても,少なくとも被告人が原審弁護人に対して怒りの感情を示したとのエピソードは,決定書においてほとんど示されていない。引用された原審弁護人とのやりとりも,自らの精神状態のおかしさを正直に訴えて,原審弁護人に助けを求めていると読むのが素直であり,それ以上に原審弁護人に不信や不満をぶつけているとは到底読み込めない。
 3 なお,裁判所は,中澤なる人物のメモを西山医師同様に重視してこれを詳細に引用する(p145〜146)が,同人は,本件訴訟となんら関係のない一般人(弁護人でも精神科医でもなく,法律家ですらない)であり,原審弁護人が単なる参考のため同人と話をした際のメモが,誤って記録の一部として紛れ込んだに過ぎない。
 しかるに,西山鑑定意見書及び同鑑定意見書に完全に依拠している本決定は,結局のところ,この原審弁護人が同人の話を聞き取ったメモの内容に沿った形で現在の被告人の精神状態を把握し(本決定は,西山鑑定同様,「戦うべき相手である原審弁護人」などの同メモのキーワードを,そのまま自己の論理の基軸に据えていることが明らかである),同メモをあたかも重要な証拠であるかのごとく扱ってその内容を細かに引用しているというのであるから,もはや滑稽と評するほか途がない。

第2 本決定の論理は自己矛盾しており,理解不能である
 1 西山鑑定意見書同様,本決定も,接見拒否によって完全に悪化したかに見える被告人と弁護人との関係が,いったん改善して再び接見が可能となった事実を認めながら(p146),それがいかなる理由に基づくものかを,全く指摘できていない。この改善過程の説明ができていないことは,井上反対尋問の強行に始まる弁護団との関係悪化にすべての原因を求める本決定の論理(ひいては西山鑑定の論理)が,そこで既に破綻していることを示すものである。
 2 また,本決定は,被告人が平成9年3月19日の接見以前から,「原審弁護人の黙秘の方針とは決別しようとの意思を固めていた」ことが明らかであるとして,公判記録中から,これに都合の良い被告人の不規則発言だけを恣意的に集めて並べている(p147)。
 しかし,同日以前から被告人がかかる決意を固めていたのであれば,なぜ弁護人との関係がこのころいったん改善したのか,一層理解困難である。
 3 さらに,本決定は,被告人の「黙秘の方針との決別の決意」について詳細に指摘しているが,そうであれば被告人は現在も自己の無罪を声高に叫び続けているのでなければならない。もし仮に裁判所の主張するとおり,被告人が,裁判所から「控訴趣意書を提出しなければ,控訴棄却によって死刑判決が確定してしまう」などと説明されて,これを十分に理解したというのであれば,なおさら被告人が今,黙秘の方針をとることはあり得ないことである。
 そもそも,「黙秘の方針との決別の決意」なるものは,「黙秘(沈黙)で戦っている」という西山鑑定意見の結論とは,全く正反対の決意である。本決定の理屈によれば,被告人は,「黙秘の方針との決別の決意」に基づいて原審弁護団との関係を修復不能なほどに「悪化」させ,その結果として,「自分自身で自分の窮地を脱する途を拓こうとの意思を抱いた」被告人は,原審弁護人との約束を守って,「黙秘で戦う決意」を固め,現在もそれを実行しているというのである。どう考えても,意味不明というほかない。

第3 「わざとらしさ」の認定は,すなわち訴訟無能力につながる
 1 裁判所は,被告人の「飛田検事正,足立検事,吉永検事総長は生きているか。」などの一連の発言が「いかにもわざとらしい」ものであるとしている(p149)。
 しかし,本決定は,このような発言をした当時の被告人に常識的な知的水準と高度の防御能力が維持されているとの前提に立ちながら,その被告人が,法廷という場においてかかる「いかにもわざとらしい虚言」をもって自己の防御方法として通用するものと信じていたというのであるから,その理屈自体が既に矛盾である。
 2 仮に「わざとらしい」という裁判所の評価が正しいとすれば,それはまさに(西山医師が用いた誤用の独自用語ではなく)正確な精神医学用語にいうところの「偽痴呆」の診断根拠(的はずれ応答)に該当する事情が認められることになる。
 「偽痴呆」とは,あたかも痴呆を装ったように見える病気のことであって,意図的に痴呆を装うことではない。精神病を装うかのような「わざとらしい」応答が繰り替えされることが偽痴呆の主要な鑑別基準であることは,国際的診断基準にも明示されている精神医学上の定説である。被告人が偽痴呆であれば,すなわち被告人は重篤な拘禁反応に罹患していて訴訟能力を欠いていると結論されることになるのである。
 本決定は,弁護側提出の正確な医学的知見に基づく精神科医の意見書・反論書を,「精査検討」どころか,そもそも読んでいないと疑わざるを得ない。本決定は,「偽痴呆」という医学用語を,西山医師の誤用を鵜呑みにして,「被告人が精神の異常(痴呆)を来しているのではないかと周囲が思うように仕向けること」(p147)と理解しているようである。これは「詐病」であって「偽痴呆」ではない。
 3 付言すれば,西山医師は,精神科医としての良心の呵責の最後のひとかけらによって,どう見ても精神病の演技をしているようには見えない被告人に対して,「詐病」という強い言葉を向けることができなかったと考えられる。そのため,あたかも医学的根拠のある診断名であるかのような響きを持つ「偽痴呆」という用語を用いて(おそらくは意図的に誤用して),この点を曖昧にしたまま鑑定意見の結論を書いたのである。
 裁判所は,そのことにすら気づかずに,西山医師の誤用した「偽痴呆」という用語を詐病を指す医学用語だと信じて(あるいは信じたふりをして),本決定においても積極的に用いているのである。

第4 原審弁護団との関係改善の説明ができない
 1 本決定も認めるように,被告人は,平成12年9月以降の時期になると,再度原審弁護人との接見に応じているのであり,原審弁護人との決定的敵対関係の継続を基軸とする裁判所の論理が破綻していることは自ずから明らかである。
 2 この点について本決定は,被告人がオウム真理教の現状,被告人の弟子の裁判の進行状況,事故の裁判の見通し等について情報を得るために会っていたなどと推測し,そのときどきにおいて接見に応じるか否かの意思が働いていたなどと,誠に勝手な推測をしている。
 しかし,本決定が自ら認めるように,「(被告人が原審弁護人と再度接見するようになった)その理由については,平成9年以降の接見メモが当審弁護人から当裁判所に提出されていないので,これをつまびらかにし得ない」(p151)はずである。
 しかも,裁判所は,弁護団との接見後被告人が意味不明の言動をしたなどと根拠なく認定し,「被告人にとって快くない話があったのであろう。」(p152)とまで決めつけて推測しているにもかかわらず,被告人がそうまでして再開したはずの原審弁護団との接見を,その後また拒否するに至った理由については,何ら示すことができないのである。
 3 そのため本決定は,この時期の被告人と弁護団との関係を合理的に説明することを放棄し,「そのときどきで接見するか否かを決めていた」などという意思発動の問題に話をすり替えている。(もとより,この時点で既に拘禁反応等の精神障害が発生していたとすれば,被告人が接見の申入れに対して明確な反応を示せたのか否かがそもそも疑問なのであるから,意思発動の有無の認定など到底不可能である。)
 弁護団との敵対関係に基礎を置く本決定の論理が,客観的経過からみて前後矛盾していて,全体として意味をなさないことは明らかである。

第5 死刑回避等目的では,現在の被告人の状態が全く説明できない
 本決定は,被告人が控訴審弁護人と意思疎通を図らないことは,事件の長期化による死刑回避等の被告人の利得に結びつくとしている(p154)。
 しかし,もしそうであれば,裁判所の直接の面談によって現在の差し迫った状況を説明された際,被告人が取るはずの行動は,これまでにも増して強烈な精神異常を印象づけようとするか,あるいは,その偽装が不奏功であったことを知って,それこそ「黙秘の方針との決別の決意」をもって声高に無罪を叫ぶのでなければならないであろう。
 ところが,(裁判所によれば)被告人は裁判所に対して明確に意思疎通することで自己の精神的正常性を印象づけたうえ,その後はまた無意味な詐病の演技に回帰して,死刑回避に向けた行動は全く取っていないというのである。かかる本決定の論理は,現実と符合しておらず,自己矛盾しており,どうにも不自然きわまりない。

第6 本決定は,論理矛盾に満ちあふれている
 1 本決定は,被告人が本件訴訟当初において「相当高度な防御能力を持っていたこと」に留意すべきであるとする(p157)。
 しかるに他方で本決定は,被告人は,井上証人に対する反対尋問をすれば多数の者に災厄が及ぶなどの「作り話」ないし「虚言」をなし,あるいは宗教上の信念を武器にして「だから,こういう電撃とか洗脳とかやめて欲しいんだ。レーザーによる照射とか,電撃とか,やめて欲しいんだよ,全部。」などと発言したのであるから,これらは精神異常ではないという。
 前記のとおり,このような発言が「相当高度な防御能力」を有する者の発言として合理的に理解できないものであることは明らかであり,本決定は同じ論理矛盾を繰り返し犯している。
 2 それどころか,本決定によれば,「レーザーによる照射とか,電撃とかやめてほしいんだよ」云々の被告人の発言は,「廣瀬証人の反対尋問が自己に不利益であることを正しく認識して,そのことを言い換えた虚言」なのであるという。
 何をどう言い換えるとこのようになるのか,是非とも詳しく説明していただきたいものである。
 3 さらに,それに続く不規則発言に関する本決定の認定は,いずれも被告人が精神異常ではないとの結論を念頭に,一方的に「……と認められるから精神異常ではない」等の勝手な決めつけを繰り返すものであって,何ら実質的理由を伴っていない。
 明らかにその場に不適切で,被告人にとって到底有利とはならない英語混じりの意味不明の意見陳述を,すべて「(正常で明確な意図に基づく)作り話・虚言」と言いくるめる本決定の論理矛盾についても,前記と同様である。
 4 加えて,拘禁反応などの精神異常は時々刻々と進行変化する性質のものであり得るし,正常と異常の境にある者は,ある瞬間にまともな受け答えをし,次の瞬間には不可解な受け答えをすることがあり得ることは,極めて常識的な経験則である。
 してみると,本決定が,一見すると正常であるかに見える被告人の個別の言動だけを細かく取り出して,その部分部分がそれぞれ正常であるから,他の一見して異常に思われる大多数の言動も実は精神異常ではないなどとする論理は,到底合理性を認め得ないものであって,およそ一般に通用しない。
 5 なお,本決定が「ハナゾノヨウイチ特別陪席」の正体を「小川正持補充裁判官」であると解き明かしてみせた部分(p167)は,本決定の中でも特に秀逸な論理の一例である。小川という姓から童謡「春の小川」を連想し,そこから花園の情景を連想したとか,関越道の花園インター(どこから関越道が出てきたのか不明)からの連想であるとか,「ヨウイチ」は「ショウジ」から作り出せるなど,まるでテレビアニメに登場する少年探偵団の謎解きのごとく,見事なまでに突飛な推理の連続である。本決定の基礎となる理屈がいかなる次元にあるものかを如実に物語っているといえよう。

第7 弟子の法廷での被告人の発言は,拘禁反応の診断と何ら矛盾しない
 被告人において,かつての弟子の尋問や,弟子の法廷に証人として召喚された際に限って比較的多く発言や応答が見られたとしても(p174),それは拘禁反応という心因性精神疾患の特性上,あまりに当然のことである。
 すなわち,拘禁反応は,外界から隔離された「拘禁」という特殊な環境に対応して目的性の精神障害を引き起こす疾患であるから,法廷内限りとはいえ,身体の拘束を解かれて拘置所から出て,かつての弟子達らの声を聞き,直にその発言に触れ,場合によっては会話もできるという滅多に訪れない機会において,一時的にせよ拘禁反応の症状が軽快することは十分に考えられるのである。
 当時の被告人が,その置かれた環境に応じて精神状態を変動させたことは,かかる拘禁反応の本来的特性から合理的に説明しうるものであり,それどころか,拘禁反応が容易に治療可能であることを裏付ける出来事として理解されねばならないであろう。

第8 観察者に予断があるがゆえに,被告人の言動が誤って解釈されている
 1 本決定は,原審での被告人質問に対する被告人の反応について,「弁護人が入れ替わり立ち替わり質問すると,被告人は,質問内容に対応して,表情が変わったり,あくびをしたり,口を動かしたり止めたり,口元がゆるんだり笑ったり,質問者の方を向いたり反対の方を向いたりする,などの反応を示していることがうかがえるのであって,被告人は,質問される内容がわかっていながら,答えないだけである,ということが容易に看て取れる態度を取っている」とする。
 しかし,かかる被告人の態度は,現在,控訴審弁護人や被告人の家族らに対して取る被告人の態度とほとんど異ならない。
 被告人は,「弁護人が入れ替わり立ち替わり質問」をしなくても,全く同様に「表情が変わったり,あくびをしたり,口を動かしたり止めたり,口元がゆるんだり笑ったり,質問者の方を向いたり反対の方を向いたりする」のである。当時の訴訟関係者が,質問と被告人の態度に対応関係を見いだした(見いだそうとした)のは,そもそも被告人の精神能力を問題視していなかったがゆえの単純な誤解にすぎない。
 2 同じことは,裁判所による被告人との面談の際にも現に生じていることである。
 裁判長が控訴趣意書の提出期限について説明した際,たしかに被告人は「うん,うん」といつまでも独語を発したかもしれないが,同様に裁判長が仮に何も説明せずに沈黙していたとしても,被告人は「うん,うん」と独語したのであり,あるいは裁判長が「あなたは馬鹿ですか」と質問したとしても,「あなたを本日死刑にしてもいいですか」と質問したとしても,いずれにしても被告人は,ただ「うん,うん」と独語し続けたのである。
 目が見えるかもしれないと思って観察すれば,盲目の人間の行動であっても,あたかも目が見えるかのように観察できてしまうのも同じである。「予断排除」は刑事訴訟のイロハのイではないのか。
 なお,あえて言えば,被告人の三女が被告人とはじめて接見した際,同女は久しぶりの父親との再会のうれしさのあまり一方的にしゃべり続け,その間「うん,うん」と独語したり,突然笑ったりする被告人をみて,自分の話を聞いてくれているかのごとくに思ったという状況がある。
 これは,裁判所が被告人と面談した際に,一方的に控訴趣意書提出手続等についての説明をし,その間「うん,うん」と独語する被告人をみて,あたかも説明を理解していると思ったのと同じである。裁判所のいう事実調べとは,要するにその程度の次元のものであった。

第9 接見に対する対応は,被告人の意思発動ではなく拘置所の判断に基づく
 1 本決定は,「被告人は,当審弁護人からの接見申し出に対し,平成16年4月5日から同年7月26日までは応じず,同年7月29日以降はほぼこれに応じているものの,平成17年1月25日,同年9月5日,同月20日及び同月22日にはこれを拒否してるのであって,これは,被告人が接見を拒否しようと思えばできることを示している。」とするが(p180),これこそまさに空想虚言の類であろう。
 弁護人らが繰り返し主張しているように,被告人は自己の意思で接見に応じたり拒否したりしているのではない。ただ拘置所職員が車いすに乗せて接見室に運んで来るかどうかの違いにすぎない。
 被告人は始終基本的に無言であり,ときおり「うん,うん」などと独語し,あるいは見えない誰かと会話しながら手を上下左右に動かすような仕草をする。したがって,そうした被告人に対し,拘置所職員が接見申出のあった旨を告げた場合でも,同じく被告人は,基本的に無言であろうし,ときおり「うん,うん」と独語したり,あるいは意味もなく手を振るような仕草をするである。それゆえ,このとき拘置所職員が,「(接見に)行かないのか」と尋ねれば,たしかに被告人は「うん,うん」と言うこともあるであろうし,手を左右に振ることもあるであろう。
 しかし,もしもこのとき,拘置所職員が「接見に行くのか」と尋ねていれば,被告人は同じく「うん,うん」と言うのである。また,職員が,「接見に行くつもりがあるのなら手を動かせ」と言えば,それに対して同じように手を左右に振ることもあったはずである。
 被告人のこうした奇異な言動が,周囲の働きかけと無関係に始終一人で繰り返されていることは,拘置所の記録や弁護人の接見記録,裁判所が依拠する西山鑑定意見を含む多数の医師による被告人の観察結果等から,あまりに自明の客観的事実である。唯一,これを頑強なまでに認めようとしないのは,控訴審裁判所だけなのである。
 2 本決定は,「被告人は,……当審弁護人から接見の申し出があっても,無言のまま出房せず……申し出に応じなかった」(T(6)@)ことを,被告人の接見拒否の意思表示とする一方で,「被告人は,同年7月29日,職員が弁護人からの接見の申し出を告げても,無言であったが,職員が居房に入り,両脇を抱えて居房前に用意した車いすまで移動させたところ,抵抗することなく歩行して乗車し,初めて当審弁護人との接見に応じた」(T(6)A)のは,被告人が接見に応じる意思表示であるという。
 しかし,仮に@の際に,接見申出を告げても無言であった被告人に対して,「職員が居房に入り,両脇を抱えて居房前に用意した車いすまで移動させた」とすれば,被告人はやはり「抵抗することなく歩行して乗車し,初めて当審弁護人との接見に応じた」であろう。@とAで,被告人の状態には何の違いもない。拘置所職員の対応だけが違っているのである。こんなものが被告人の意思の表れであるはずがない。

第10 常識的経験則までも完全に無視した立論をしている
 本決定は,「被告人が,当審弁護人との接見中に,突然立ち上がって全身を小刻みに震わせたり,四つんばいになったり,大声を出してみたり,自慰行為に及んだりするという言動は,被告人が当審弁護人に嫌悪の情を抱いていることを示している」という。この一方的な決めつけに,一体どのような合理性を見いだしたらよいというのか。
 これを書かれた裁判官は,個人的な日常生活の体験の中で,自分が嫌悪の情を抱く相手を前にすると「突然立ち上がって全身を小刻みに震わせたり,四つんばいになったり,大声を出してみたり,自慰行為に及んだり」しているというのであろうか。あるいはそうした社会通念上の経験則の存在を確信しているのであろうか。
 もしそうでないとすれば,本決定は要するに,接見中の被告人の疑いなき異常行動を「正常」という視点からどうしても説明できなかったために,やむを得ず「嫌悪の情」などという理由にならない理由をとってつけたとしか考えられないのである。

第11 被告人は家族に対しても,他と全く同様に疎通性がない
 1 さらに,本決定は,「被告人は,次女ら家族との面会の際,面会が開始されてからしばらくは,面会人から一方的に語りかけるだけで応答はしないものの,『うん,うん』と発言し,笑い声を発するなどして傾聴と安堵という心の動きが感じられるような状況にあったが,1年くらい経つと,自慰行為に及んだり,大声を出したりするようになってきていることが明らかである」(p180〜181)などとするが,明らかどころか完全な間違いである。
 面会人から一方的に語りかけるだけで応答しないのは,面会開始当初から現在まで全く同様であり,被告人側からの語りかけや応答など,一度としてない。問いかけと無関係に「うん,うん」と発声したり,突然笑い声を発するなども同様である。ときに意味不明の大声を出すことも,何年も前から継続的に観察されている被告人の奇行のひとつである。
 しかもこれらの被告人の言動は,何度でも繰り返すが,ここ数年間,24時間いつでも,誰に対しても,全く変わらないのである。「明らか」とは,このような事実を指して用いるべき表現である。
 なお,自慰行為についても,家族の前でのみ行うものではなく,弁護人の前でも,看守の前でも,日常生活のあらゆる場面でところ構わず行っているのであって,家族との関係等特定の状況に対応して変化した事情ではない。これもまた「明らか」である。
 2 本決定は,常時誰に対しても続く被告人の異常な言動を,でたらめな順序をつけて切り取り,全く別の出来事に再構成したうえ,家族との面会の最初の1年間に限って被告人に「傾聴と安堵という心の動き」が生じているなどと誤った事実認定をしているのであって,そこには明確な悪意に基づく虚偽性が認められる。

第12 被告人の言動は,周囲の状況を認識してするものではない
 1 被告人の看守長に対する「きてるの」とか「いらん」など発言(p181)は,その存在自体がそもそも極めて疑わしい。ほとんど聞き取れない音量で独語を続ける状況にある被告人から,わずかに数語,なんとか聞き取り可能な程度の音声がもれたとしても,それを言語として正確に記録できるものではない。これは例えば,雑音がひどく,とぎれとぎれで,日本語かどうかも本当はよくわからない単語が時折ごくわずかに聞きとれる,という程度のラジオ放送を想像すればわかりやすい。
2 ところが,被告人は見たところ無機質なラジオではなく人間であり,しかもその人間と意思疎通できるとの前提で目の前で語りかけている者から見れば,被告人の口から何らかの音声を聞き取った際,それを自己の発言に対する応答と関連づけて理解し,その場の状況に合わせて強引に評価しなおすことは十分にあり得る。というより,聞き取られたという被告人の発語の字句自体が,そのような主観的評価によって変質していると考えるのが,むしろ自然であろう。伝聞というのはすべからくそういうものであるし,被告人の場合は,そもそもほとんど聞き取れない音声を,観察者が無理に聞き取っているのであるから,その記録が正確だと仮定する方がおかしい。
 3 被告人において「きてるの」というような発音があったというのは,決して,看守長と被告人との間で「(通知書が)来てるの?」などという会話が成立したのものではない。正確には,被告人の独語が「……(うにゃうにゃ)……きてるの……(むにゃむにゃ)……」という形で,一部だけ聞き取れたという状況である。(これは拘置所の他の記録に残る発言や,西山医師の「ちっと」「しなくて」などの聞き取り,拘置所医師が聞き取ったという言葉など,すべてに共通している。)
 このとき,被告人は見えない誰かと「(服を)着てるの?」などと会話していたのかもしれないし,独語をしていたのかもしれない。「いらん」が「(国名の)イラン」でないという保証もない。
 無論,これらは根拠のない推測と想像にすぎないが,それでも被告人の発音した独語の解釈と全く矛盾しない。そして,本決定が,「きてるの」などの被告人の独語を,その場の状況と強引に結びつけて評価することは,これらと同列の単なる言葉遊びでしかないのである。
 4 なお,「抵抗することなく歩行して居房から出て」(p181)との表現は,あたかも被告人が自らの意思で歩行しているかのごとき印象をもたらすし,同様の表現は本決定のそこかしこに見られる。
 しかし,被告人に対して物理的強制力が加えられているからこそ,被告人が「抵抗」するかどうかが問題となるのであり,看守らが被告人を無理矢理歩かせている状況は自ずから明らかである。
 むしろ,かかる物理的強制によって歩行させられようとしているにもかかわらず,被告人がそれに全く抵抗しないことは,単純な反射行動すらできないレベルにまで意思発動が低下(ないし欠缺)していることの証左とみなければならないのである。

第13 一をもって百を否定することはできない
 1 本決定は,一方で,被告人が日常生活において自発的行動がなく,ただ無言ないし独り言をつぶやき,あるいは突然笑うなどの異常な状況にあり,着替え,入浴,運動などについて職員の介護が必要であり,排泄はオムツによる全介護状態であることを認めている。
 しかし他方で,被告人が食欲旺盛で自力喫食し,指示に従って入浴するとか,壁に手をついて伝え歩くとか,野球の投球フォームをしたとかのエピソードを拾って,自発的に整然とした行動をとるなどとし,訴訟能力を失ったとの疑いは生じないとする。あまりに馬鹿げた認定である。
 人が食事をしたらそれが自発的整然とした行動なのか。そもそも裁判所は,被告人の食事の内容が一体どのようなものであるか検討したのであろうか。弁護人らが聞き及ぶ被告人の食事は,すべてのおかずとデザートをご飯の上にぶっかけただけのものであり,味覚もなにもないようなものを,被告人はレンゲで機械的に全量口に運び,一切好き嫌いを示さないというのである。到底まともとは言えない。
 入浴に介護が必要であるという認定と,指示に従って自発的に湯につかり,陰部を洗うなどという認定が矛盾していることは明らかであるが,それを措くとしても,陰部を洗うことしかしない入浴方法のどこが正常なのか。湯につかったり陰部を洗うのは本当にいつものことなのか。あるいはこれが自慰行為でなかったという保証があるのか。そもそも弁護人らが聞き及んでいる入浴方法は,このように被告人がただおとなしく看守の指示に従うような状況ではなく,被告人の体を数人掛かりでブラシでこするような方法である。
 被告人が一歩でも歩いたら,それで自発行動があるのか。盲目である被告人が壁づたいに歩くのは当然であろう。強度に重篤な精神病患者でも,食事もすれば歩きもするであろう。被告人が自己の行動を制御できる正常な神経をもって長年精神病を装っているのだとしたら,被告人は,このとき一体何を意図してわざわざ歩いたというのか。そもそも被告人が歩いたというのは,この数年間で何回,何歩のことなのか。それは正常な人間に見られる数字なのか。
 同じことは投球動作等にも言える。数年の自閉の中で,自発的運動と呼べるものがわずかに1回でもあれば,それで正常だというのか。1回かそこらしかないことがまさに異常性の現れそのものではないのか。この投球動作なり,その他の意味不明の体動なりは,拘禁反応ないし精神病に罹患した者の行動としては絶対にあり得ないようなものなのか。逆に,被告人が正常な神経で詐病を装っているとすれば,この投球動作をしたことにどのような意味があるのか。疑問がつきないとはこのことであろう。
 本決定はこれらの疑問に答えるどころか,はじめから疑いすら抱かないというのである。
 2 結局,本決定においても,被告人の日常生活は,一日24時間のうちの23時間数十分については,異常であると認めるほかないのであり,その他には,数年の間にわずか数点に限って,それだけなら自発性の表現とも解釈可能なエピソードが見いだされるにすぎない。解釈可能であることと,当然にそうとしか解釈できないことは全く違うし,そもそも個別のエピソードだけについて意味づけすることは,被告人の全状況を総合判断するうえにおいて,何の意味も持たない。
 特に,拘禁反応は外界の状況と対応した目的性の心因反応であり,そもそも病状がある程度変動しうるものでもあることからすると,点による判断は極めて危険であり,被告人の全状況を総合的に判断しなければ正しい鑑別とはならない。
 本決定は「原審公判の推移,被告人の原審公判における言動,原審弁護人との接見状況,控訴人に訴訟が移行してからの当審弁護人との接見状況などが,総体として,かつ,相互の有機的関連性にも留意しながら分析を加えることが要請される」(p198)などとして,あたかも全体的考察が不可欠であるかのように言うが,その実,そこには被告人の明らかに異常な日常生活の諸状況が,検討要素としてすら挙げられていない。そうして,もっぱら被告人の「詐病の意図」を物語的に無理矢理作り出すために,原審弁護団との関係等について,役に立ちそうな素材だけをかき集めている。あるいはまた,被告人の正常性を強調するためには,24時間続く異常行動をまったく重視せず,数年に一度のわずかな言動だけに繰り返し固執するのである。
 3 なお,拘置所医務部長の診察(p183)は,裁判所の面談などと同様,被告人の独語を都合良く自己の問いかけに対する応答としてとらえているだけの内容であり,問答などとは到底呼べないものである。
 本決定が,こうした会話と呼べないやりとりを会話であると強弁することは,そのことだけで,決定全体の虚偽性を如実に表すものとなっている。

第14 聴覚刺激に対して神経反射さえもしない被告人は,明らかに病的である
 本決定は,小木医師が突如大きな音を立てたのに対して,被告人が全く反応を示さなかったことについて,「被告人は,中谷医師との面接の際には,同医師から,2度大声で『松本さん』と呼び掛けられると,反射的に状態をのけぞらせたり,目をさかんにしばたたかせたり,野田医師との面接の際には,同医師が仕切り版をコツコツ叩くと,左眉をピクッと動かしたりしたことが認められるのであって,被告人が,小木医師のたてた音に気付かなかったとしても,その理由は,病的なものであるとまで疑うことはできない」という。
 仮に,被告人が中谷医師らの呼び掛けに反射的な反応を示したとすれば,被告人は聴力に重大な問題を生じているのではないことになるが,聴力に問題がない通常人であれば,突然の大音響に対して意識的に耳をふさぐことはできない。道を歩く誰に問うても,大音に対してビクッとなった経験は何度もあると答えるであろう。況や目の見えない被告人にとっては,聴覚は外部世界との接点の主要部分を占めているのであって,なおさら必ず条件反射的反応を起こすのでなければならない。
 したがって,被告人の聴覚に問題がないのであれば,突然の大音響に反応しないことは,もはや意識による制御可能性を超えたレベルの話なのである。これを「病的」と言わずしてなんと呼ぶのであろうか。
 しかも本決定は,被告人が小木医師のたてた音に「気付かなかった」というのである。接見室の外にいた看守が驚いてのぞき込むほどの大音に気付かなかった被告人に対し,「病的なものの疑い」さえも抱かない本決定こそまさに「病的」であり,非常識にもほどがある。

第15 西山鑑定は完全に崩壊している
 1 本決定は,中島節夫,○○,中谷陽二,野田正彰の各医師の意見書をそれぞれ批判するが,いずれも的を射ていない。
 すなわち,意見書に対する批判の大部分は,そもそも論理的に破綻している裁判所の事実認定と結論を前提に,これと異なる意見書の判断を排斥するものにすぎない。しかも,数多くの精神鑑定や臨床治療の経験を有する専門家精神科医の医学的判断部分に対しても,裁判所は独自の見解にたって,医学的根拠を持たずにこれを不自然であるなどと指摘しており,まっとうな批判たり得ていない。
 さらには意見書の基礎資料についてまで論難し,「軽率のそしりを免れない」とまで言うが,他方で西山医師がフリーハンドの鑑定をなし得る立場にありながらわずか3度の面接しか行わず,被告人の日常生活の観察も家族からの聞き取りもしていないことなどは問題にしない。(決定は,西山鑑定意見書は5か月かけたものだから詳細精緻だとも言うが,それに対する弁護人らの反論にはわずか3週間の期間しか与えず,その延長も認めなかった。)
 2 逆に,本決定は,佐藤・古茶意見書と西山鑑定意見書を,当裁判所の見解と一致するなどと持ち上げるが,明らかに逆であろう。本決定の筋書きは,すべて西山鑑定に沿ってこれをなぞるものにすぎず,その西山鑑定は佐藤・古茶意見書を大幅に取り入れているからである。これらは要するに同じものであって,相互に信用性を補完し合う性質のものではない。西山鑑定意見書に対する批判・反論は,本決定に対してそのままあてはまるのであり,西山鑑定及び本決定が破綻していることはこれまで既に十分すぎるほど論証済なのである。
 3 本決定は,弁護人らが提出した,西山鑑定意見書に対するいずれも権威ある精神科医師による的確な医学的所見に基づく詳細な批判・反論について,「精査検討したが,(この判断は)変わらない」というたった一語で片付けている。それどころか弁護人提出の反論書に至っては,その存在さえ無視している。
 その結果例えば,裁判所は,西山医師による「偽痴呆型の無言状態」との結論を「説得力がある」とする一方で,偽痴呆型の無言状態など医学的にあり得ないこと,医学用語の明らかな誤用があること,端的に「誤診」である等の医学上の定説に基づく当然の反論を,完全に黙殺している。
 本件は,医師としての患者の評価が微妙に分かれているという次元の話ではない。いずれ劣らぬ経歴を持つ6名の医師が,一致して,西山鑑定を明らかに誤診であると断言しているのである。本質的に,どちらをとるかというような話ではない。
 裁判所としては,西山鑑定意見書の医学上の誤りがあまりにも明らかであるため,かかる強力な反論に対し,どうしても完全無視を貫くほかないのである。

第16 本決定の訴訟能力に関する理解は,独自かつ異様で,判例にも反する
 1 本決定は,「訴訟能力とは,『被告人としての重要な利害を弁別し,それに従って相当な防御をすることのできる能力』である」として最高裁第三小法廷平成7年2月28日決定を引用しつつ,「仮に被告人が自ら訴訟を追行する能力を欠いている場合であっても,……弁護人からの適切な援助を受けながら訴訟の追行に当たることが可能である限り,被告人の訴訟能力は保たれているものということができる。」とする(p141)。
 このうち,少なくとも後半の見解については,「弁護人の援助の重視は当事者主義の本質に反し、……裁判所の後見的機能の重視は効率・必罰優先の理念に支配された裁判を是認するものである」(渡辺修「判例評釈」判例評論四八〇号五三頁)などと反対されるところであり,また,そもそも被告人自身の訴訟能力の判断において弁護人の援助をどこまで考慮して良いのか不明であり,結果的に被告人自身の訴訟能力という概念をなし崩し的に無にするものである点で,極めて重大な問題がある。(100のうち90の能力しかない被告人について,弁護人の10の援助を考慮するということを何の制約もなく許せば,結局は1の能力の被告人でも,99の弁護人の援助があればよいということに帰するし,少なくともその中間をどう考えるのかについて,この見解は全く基準たり得ない。)
 それゆえ,弁護人の援助をどこまで考慮しうるかの最低限を示す基準が別途必要とされるのであり,この点については,『少なくとも』,援助を受けた結果として被告人自身が「刑事手続において自己の置かれている立場をある程度正確に理解して、自己の利益を防御するために相当に的確な状況判断をすることができるし、それに必要な限りにおいて、各訴訟行為の内容についても概ね正確に伝達を受けることができる」(最高裁第一小法廷平成10年3月12日判決)ことを当然の前提とするものでなければならない。(なお,この判例の事案は,被告人自身の訴訟能力が著しく制限されている場合において,手話通訳を介することによって被告人に訴訟手続に関する上記程度の理解が得られることを前提に,弁護人及び通訳人からの適切な援助と裁判所の後見的な役割を考慮して,訴訟能力を保持するものと認めたものである。したがって,被告人の上記程度の理解は,法的な援助ではなく単に意思疎通の補助をするにすぎない通訳人の関与によってもたらされるべき理解度の基準であり,それをクリアしたうえで,弁護人・裁判所の援助も考慮されたとき,やっと訴訟能力が認められる旨判示したものである。したがって,被告人において,弁護人らの援助を含めてその程度の理解にようやく到達すればよいという意味ではない。上記に『少なくとも』としたのはその意味であり,弁護人の援助によってはじめてこの程度の理解に至るという被告人については,現在の最高裁判例の基準では,むしろ訴訟能力が否定されるべきものである。)
 2 しかるに,本決定は,「一般論としては,被拘禁者が職員の指示に従ったり,食事を自力で摂取したりする能力と,その者の訴訟能力との間には大きな懸隔があるように考えられがちであるが,それは被拘禁者が弁護人の援助を得ることなく一人で裁判の追行に当たることを前提とするからであって,そうではなく,弁護人の適切な援助を受けながら裁判の追行に当たる場合を考えてみると,……被告人本人には裁判で問題となっている重要な事柄の利害を認識,判断し,それを踏まえて弁護人と意思疎通する能力があれば足りることになり,その能力の差はそれほど大きくないと考えられることになる。そうであるとすれば,本件において,被告人が職員の指示に従ったりできることは,被告人が訴訟能力を有することをうかがわせる間接事実といえることになるのである。」(p196)という。信じがたい理屈である。
 まず,「被告人本人には裁判で問題となっている重要な事柄の利害を認識,判断し,それを踏まえて弁護人と意思疎通する能力があれば足りる」との本決定の理解は,前記判例のいう「刑事手続において自己の置かれている立場をある程度正確に理解して、自己の利益を防御するために相当に的確な状況判断をすることができるし、それに必要な限りにおいて、各訴訟行為の内容についても概ね正確に伝達を受けることができる」能力と比較し,「相当の的確さ」や「正確な伝達」などを要件としない点で明らかに基準として弛緩しており,そもそも誤りである。
 この点を措くとしても,本決定は,かかる程度の能力の具体的中身を指して,「被拘禁者が職員の指示に従ったり,食事を自力で摂取したりする能力と,その者の訴訟能力……の差はそれほど大きくない」と言うのである。あり得ない話だ。指示に従って「お座り」をしたり飯を食ったりするペットの犬程度の能力が,知的活動の最先端に属するとも言うべき訴訟能力と,大差がないというのである。つまりは,弁護人が適切な弁護をしさえすれば,幼児であろうが動物であろうが,指示に従って飯を食う程度の能力がある以上訴訟能力の水準を満たすのであり,訴訟能力がないと言えるのは,植物か植物様の状況にある生物の水準までだという見解である。
 前記最高裁判例の基準は,弁護人ら法的専門家の関与以前において,相当の的確さをもって状況判断する能力等を要求しているのであるから,弁護人の関与があればそれ以下の能力でもよいとする発想自体が誤りであるが,本決定の誤りはそういう次元のものですらない。およそ法律家の言葉とは思えない発想である。
 同様の論理は西山鑑定の中核的意見となっている。西山医師は,訴訟能力とはコミュニケーション能力であり,要するにものを言う能力であると定義し,喫食行動や鉛筆を握る行為などにおいて意思発動性が保たれていることは,ものを言う能力の存在を裏付けるものであって,それゆえに被告人には訴訟能力があると結論したのである。この西山鑑定の論理が,常識的にみて「狂っている」のはもちろんであるが,少なくとも法的観点において,「訴訟能力」の理解を救いようのないほど間違っていることは,何ら多言を要しないものというべきである。裁判所は,この西山医師の訴訟能力の理解を,端的に誤りと断ずるべきであった。
 ところが,西山医師のこの訴訟能力に関する理解は,同人の鑑定意見書の柱であり,これなくしては西山鑑定に基づいて,被告人に訴訟能力ありとの結論を導けないのである。導けないのであれば,裁判所としては訴訟無能力と判断するか,せめて再鑑定をすればよいものを,なりふり構わず控訴棄却を急いだためにそれができなかった。そのため裁判所は,本決定のどこかで,この西山医師の訴訟能力に対する誤った理解に,裁判所のお墨付きを与える必要があった。それが上記引用部分なのである。
 かくして示された本決定の訴訟能力に関する本質的理解は,単に判例違反の独自の見解であるというだけでなく,法律家一般の共通認識を(それどころか素人的発想の常識をも)遙かにはみ出した一種異様な怪物的論理なのである。裁判所がそこまでしなければ,被告人の日常生活の異常さを前にして,訴訟能力ありとの結論を導けないのが現実である。
 なお,付言するに,そもそも本決定においては,弁護人による控訴趣意書の提出期限内の不提出という行為について,「被告人の裁判を受ける権利を擁護するという使命を有する弁護士がその職責を全うするという点からみても極めて問題がある」などと論じられており,そのことがまさに被告人の原審死刑判決を確定させる本件控訴棄却決定の主要な柱となっているのであるから,被告人が「弁護人の適切な援助を受けられる」ことによって訴訟能力の不備を補完できるなどという救済論理を,当の裁判所が自ら持ち出すこと自体,悪質な自己矛盾である。裁判所が弁護人の行為について,被告人の権利擁護の職責を果たしていないとまで言って過剰な非難をぶつけるからには,被告人の訴訟能力の有無の判断基準は,被告人自身の能力だけを問題としなければならない。
 3 また,本決定は,「一般論としてみれば,被拘禁者が,職員の指示に従ったり,食事を自力で摂取したりすることなどをもって,裁判に関心がないことが直ちにアンバランスであると決めつけることはできないと考えられる」と認めつつ,「本件においては,被告人が原審で死刑判決を受けたことの認識がある被告人である,ということを前提にしてものを考える必要がある。そうすると,被告人が当審弁護人に示している態度は裁判に対する無関心というより,裁判を殊更無視しその結果としての裁判の長期係属を希求しているものといったほうが正確であり,その態度は,やはり日常生活上の言動との間で不自然なコントラストがあるように思われる」と述べる(p195〜196)。ここで不自然なコントラストなるものが何を指すのか不明であるが,それに引き続くのが前記引用部分であることからすると,要するに「被告人が訴訟能力を有することをうかがわせる間接事実」であると言いたいのであろう。
 しかし,そもそも被告人には原審で死刑判決を受けたという認識自体存在しないか,仮に当時存在したとしても,現時点でその認識は到底維持されていない。
 また,前掲最高裁第一小法廷平成10年3月12日判決は,「しかも、本件は、事実及び主たる争点ともに比較的単純な事案であって、被告人がその内容を理解していることは明らかである。」として,事案の簡易・複雑の別を,訴訟能力存否の判断基準のひとつとしている。前掲最高裁第三小法廷平成7年2月28日決定に関する最高裁判例解説(刑事)平成7年度(134頁)も,「同じ被告人でも事件の内容によって、訴訟能力が肯定されあるいは否定されることがあり得る」,「事件の内容が単純か複雑であるかを訴訟能力の判断に際して考慮に入れてよい」との見解を示しているところである。
 その意味で言えば,本件は極限的に複雑な重大事件であって,訴訟能力の判断基準は,考えられる限り最も高度なものが適用されなければならない。ところが,本決定の理屈は,被告人の死刑が問題となっている事件であることを理由に,訴訟能力を肯定する判断を導いているのであり,論理が逆転している。
 それだけではない。本決定は,要するに,被告人が死刑判決を十分に理解してこれに対して自己を防御しようとしていると認めたうえで,その手段として,「裁判を殊更無視しその結果としての裁判の長期係属を希求している」のが現在の被告人の「不自然なコントラスト」を見せる生活態度であるとし,そうであるとすれば被告人のそのような生活態度は訴訟能力を肯定する間接事実となる,と論じているのである。つまり,先に死刑判決を完全に認識・理解してこれに対処すべく行動する能力を被告人に認めるとの前提をおいたうえで,その理解に沿って現在の被告人の生活態度を評価し,そこからさらに訴訟能力肯定の結論を導いているのであるから,謂わば「悪魔のトートロジー」とでも呼ぶほかない。これでは弁護人が何を言ってもはじめから無駄になってしまう。
 さらに言えば,本決定の論理によれば,被告人が弁護人らの接見申し出に応じて接見室に来るのは自発的意思活動だというのであり,裁判所による手続告知にも被告人はあえて理解を示したというのであるから,被告人が「裁判を殊更無視」していることにならないはずであり,不自然なコントラストなるものの存在自体が論理的に架空の産物である。
 4 以上のような訴訟能力に関する裁判所の独自かつ異様な見解は,それが明示された部分に限って特に考慮されたものではなく,本決定中訴訟能力を論じるすべての紙面において(したがって本決定の表紙や別紙を除くほぼすべての字句において),裁判所の基本的考え方として終始貫かれているものである。
 本決定が不当であることは,この一事のみをもっても,既に明々白々といえる。
 なお,前掲最高裁第一小法廷平成10年3月12日判決に関係してさらに述べると,同判決は,「被告人の一般的な精神能力ないし意思伝達能力だけでなく、過去に刑事裁判を受けた経験の有無、当該刑事手続における被告人の供述ないし対応などについても詳細に検討しており、このことは、訴訟能力の審理においては、調査を尽くし、刑事手続における自己の立場の理解の程度、状況判断や供述ないし対応の的確性、権利行使が実質的に保障できるかどうかなどに関する資料を多方面から得る必要性が高いことを示すものである。」と理解されている(最高裁判例解説(刑事)・平成10年度(27頁))。
 したがって,裁判所は,被告人の訴訟能力に関して,できうる限りの調査を尽くす義務がある。本件においても,西山鑑定に重大な疑問が提起され,弁護人依頼の名だたる精神科医がそろって訴訟無能力を言明している状況下では,西山医師の鑑定人尋問や適正手続に則った再鑑定など,むしろ裁判所がこれを主導して当然に認めるべきものであった。
 これら容易に採りうる手段を何ら尽くすことなく,弁護人の申立てをことごとく容れず,法廷でこれを争うと通告した弁護人の控訴趣意書も受け取らず,だまし討ち的に提出予定日の前日に控訴棄却した裁判所の訴訟指揮は,明らかに違憲・違法である(法1条,憲法31条)。